高良大社(こうらたいしゃ)は久留米にあって、筑後一帯に信仰を集めてる古いお社。
この辺りでは知らない人はいないレベルなんですが、その御祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)がどういう神様なのかについては実はいろんな説があるらしく、ちょっと謎めいてるのも魅力のひとつ♪
おまけに日本中の神様が出雲に集う神無月にも、高良の神サマはどこ吹く風でここに鎮座、
おかげでこの地域は出雲同様、神在月って言ってるとかいう話もあって、謎VIPぶりがハンパない。
そんな高良大社がある山の奥手にさらに奥宮があると聞いては、立ち寄らずにはいられません。
上の写真の鳥居がその奥宮の入り口。
鳥居の脇の解説。
気になったポイントはこの奥宮、武内宿禰(たけのうちのすくね)の墓所ってことと、ここが高良山信仰の原点であるってこと。
あと、法力で天竺から招き寄せた清水があり、毘沙門堂として信仰されていたけど、明治の神仏分離で水分神社と改められた、ってこともいちおうメモ。
以下全文です。
古くは「高良廟」「御神廟」と称し、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳七年(六七八)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の水を法力で招き寄せたのが、この清水であるという。
鎌倉時代の貞永元年(一二三二)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。
中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。
江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修行したという。
明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。
鳥居をくぐると完全な山道で、けっこう距離もありそう。
でもあの武内宿禰の墓所と聞いては、引き返すわけにもいかず、、、
武内宿禰は景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の五代に渡って仕えた大和朝廷の高官で、西暦84年誕生、没年が364年という伝奇的人物。神功皇后の半島遠征にも付き従って、あれこれ活躍してます。
あっとの住む那珂川町でも、裂田溝(さくたのうなで)を敷設したときのイカヅチ落としが伝えられてて、勝手に親近感♪
謎めいた高良玉垂命、実はこの武内宿禰ではないかという説に、あっとは惹かれてます。
高良大社の存在感からすると、武内宿禰クラスのビッグネームならかなりしっくり♪
表立たずにぼかして祀られてるあたりも、なんか「らしい」んですよね・・・
ただ、高良大社の裏手の末社・印鑰神社に、武内宿禰がはっきりと祀られてるのがちょっとひっかかります、、、
にしても山道長いな、と思い始めた弱気を励ますように、小さな鳥居が見えてきました。
「奥社」とあるのを確認。
でもまだ先があるみたい(^^;)
コメント
お久しぶり〜!
あっちゃんのブログもさぞかし溜まっているだろうと開いてみたら、あらまぁ!しばらくお休みしていたの?
それにしても奥社までいよいよ探索ですね(^m^ )
武内宿禰と高良という名前には何の接点も無いけど、、。ゆかりはとても深いのでしょうが、ここで祀られている神様は誰なのか!?なにかヒントになるような言われや文献はないのでしょうか〜〜。
たくさんの学者さんも探っているのでしょうから、それでも謎というのは本当に興味深いですね(*^^*)
かなりの大社だし、神在月があるとすると出雲に匹敵する何かがあるのでしょうから〜!
話はコロリと変わりますが、伊勢神宮〜遷宮でこれまたチャンスあれば行ってみたいところです(*^^*)
日本は神秘的な国よの〜〜(*^^*)
は〜い、ごめんなさい。すっかりサボり癖がついてしまいました(´⊆`*)ゞテヘヘ.
久しぶりに書いたら、こうしてすぐかおたんが来てくれて、嬉しいです♪
そうですよね、調べればきっといろいろ文献もあるんでしょうけど、多分読めないと思うw
壱岐氏の祖と言われてる壱岐真根子(いきのまねこ)は、この武内宿禰をかばって亡くなったと言われています。もしかしたら壱岐にも武内宿禰の足跡が何かあるかも知れないですね。
そうそう、今年は伊勢の大イベント年なんですよね。
あちこちの神社で伊勢神宮のポスター、見かけますよ(^^)